偉人の言葉
 
心が沈んでいる人、生きていくのが辛くなっている人に激励となれば幸いです。本ページを読まれて、力強く生き抜くための「人生の転機」となってもらえれば、本サイト管理者の最も喜びとするところです。
一口メモは本サイト管理者の勝手な解釈です。
(注:「聖書」の部分のみ、友人のGalilee(ガリレー)さんからの情報です。) 順不同





<釈尊、法句経>

「自己と法とを灯明とせよ」

→ 一口メモ:「自分自身と法(仏法)だけを拠り所として生きていきなさい。他人を頼ってはだめですよ。」と解釈してます。「独立自営」で生きている自分にとってはとても身近な言葉です。



<聖 書>

(その1)
『イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。
 → 一口メモ:新約聖書マタイによる福音書22章32節〜38節に書いてある所によると、あるとき聖書に詳しい人がイエス様に、聖書の中で一番重要な律法(聖なる神様の命令)は何ですか?と尋ねました。部厚い旧約聖書の中から一番大切な命令を言ってください、といわれると、難しいことですが、イエス様は直ちに上のように答えられました。

(その2)
イエスは更に続いて、22章39節に言われました。
第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。』
→ 一口メモ:ありったけの力で神様を愛するように、あなたのまわりの人を自分のように愛しなさい、と言うことです。

 キリスト教で神を愛することの基本は、神様が私たちを限りなく愛していると言うことに基づいています。ヨハネによる福音書章16節にこうあります。
『 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 』
誰でも愛する人の為になら力になろうと思います。しかし自分の命を与えてまであなたの罪を全部きれいに消しましょう、といわれるのは神であり人となったキリストのみです。キリスト教の象徴の十字架は、そのことを表しています。
(注)
この”聖書”(その1,その2一口メモ部分は本サイト管理者の友人であるGalilee(ガリレー)さんからの情報で掲載しました。

<親鸞、歎異抄>

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」

→ 一口メモ:「善人でさえ極楽往生を遂げるのだから悪人でも勿論往生できるよ。」との意味でしょう。親鸞と言う人はなんと心の広い人なのかと深く考えさせられる言葉です。

<ノーマン・カズンズ 500分の1の奇跡>

「たとえ前途が全く絶望的と思われる時でも、人間の心身の再生能力を決して過小評価してはならぬということである 〜略〜 人間の精神と肉体の双方に、生まれながらに完全性と再生を求めてつき進む力が備わっている。われわれがその自然の力にもっと充分の敬意を払うようになったら、その枠がうんと広がっていく可能性がある。」

→ 一口メモ:「人間の可能性、生命力を信じなさい。」と言うことでしょうか。「希望」を持つことの重要性と自分を信じる強い「心」をもちたいものです


<孫 子>

「故に曰わく、彼を知り己を知れば、百戦して危うからず。彼を知らずして己を知れば、一たびは勝ち一たびは負く。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず敗る。」

→ 一口メモ:「敵と戦う前には、自分自身をよく知って、なおかつ、相手のことをよく分析しなさい!」との孫子の有名な言葉です。ここで言う”戦い”とは、何も武力を用いた戦争だけではなく、一般のビジネスの世界にも充分通用するものと言えるでしょう。


<日 蓮>

「なによりも、受け難き人身、あい難き仏法にあい奉りて、五尺の身に一尺のおもてあり、そのおもての中に三寸の眼二つあり、一歳より六十に及んで、多くの物を見る中によろこばしきことは、法華最第一の経文なり」

→ 一口メモ:「法華経を拠り所にして生きていきなさい!」との日蓮の力強い言葉が聞こえてきそうです。ちなみに、仏教の開祖の釈尊も同じことを言っています。この言葉を契機に、法華経をしっかりと勉強していきたいものです。


<正岡子規>

「悟りとは、平気で死ぬことではなく、平気で生きていくことだ。」

→ 一口メモ:“悟り”とは、一般的には、どのような状況であろうとも、そしていつでも平気で死ぬことが出来ることだと思われていますが、それをこの言葉は覆しています。長い人生、なにがあろうとも“平気”で過ごしていきたいものです。


<孔子、論語>

「子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。友、遠方よりきたるあり、またたのしからずや。人知らずしてうらみず、また君子ならずや」

→ 一口メモ:「学んだことを復習して身につける。楽しいことではないか。友人も遠方より来てくれる。他人に評価されなくても(よく思われなくても)立派な人だ」……このような意味ではないかと思っています。かの孔子に言わせると、“学ぶことは楽しむこと”だということか。いくつになっても学ぶ姿勢で生きていきたいものです。


<宮本武蔵、五輪書>

「"空"というのは勿論何もないところをいうのである。ものごとがあるところをすべて充分に知りきってからのちになってはじめて、何もないところ・・・空を知れるのだ。それが"空"である。世間ではよく、まちがった物の考え方をしているので、ものごとの道理がわからなくなったところを"空"だとしているようだが、これは本当の空などではなく、ただの迷いごころにすぎない。 〜略〜 武士たるものは、兵法の道をしっかりと体得し、その他の武芸をもよく学び、武士としての正しいありかたについてよく心得、心を迷わすことなく、朝に夕につとめ、心・意のちからを養い観・見の二つのちからをみがき、迷いの雲を抜け出たところこそ真の"空"なのだと悟らなければいけない」

→ 一口メモ:さすがに”剣聖”とも言われる人の言葉だと思います。武蔵は剣の道を極めて"悟り"に達した人と言えるでしょう。いかなる人であっても、どのような職業に携わっていようとも、精進を重ね、自分だけの唯1つの道を極めれば"悟り"の境地に達する事が出来るとの教えと考えていいでしょう



<老 子>

「禍(か)は福の倚(よ)る所、福は禍の伏(ふ)す所」

→ 一口メモ:「福(よろこび、幸福)は、たちまちにして禍(わざわい)となり、禍は知らない間に福となっている。」との意味だと思います。そういえば、ことわざにありましたね。……「人生、楽あれば、苦あり」、どんなに苦しいことがあろうとも、いつかは幸福になれるとの強い信念を持ちつづけて生きていきたいものです


<道元、正法眼蔵>

「仏道をなろうというは、自己をなろうなり、自己をなろうというは、自己を忘るるなり。自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなり。」

→ 一口メモ:仏道というのは「自己」というものを徹底的に追及していくことのようです。悟りの世界に行き着くまでにはかなり厳しい修行が必要でしょう。ところで、西洋の言葉にも上と同じようなのがありましたでしょうか?

  • 汝自身を知れ
  • 我思う故に我有り

悟りに達した「達人」は、東洋も西洋もほぼ同じ境地に達すると言ってよいのでしょうか?


最後に「般若心経」の最後の文章で閉めます。

<般若心経>

「掲諦(ギャテイ)。掲諦(ギャテイ)。波羅掲諦(ハラギャテイ)。波羅僧掲諦(ハラソウギャテイ)。菩提薩婆訶(ボウジソワカ)」

→一口メモ:全く意味解らず「般若心経講義」
(角川文庫:高神覚昇)より、そのまま引用します。

(意味)自分も悟りの彼岸へいった。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。あまねく一切の人々をみないかしめ終わった。かくしてわが覚(さと)りの道は成就された。

(「自ら覚(さと)り、他を覚らしめ、覚の行が完成した。」ということで、それは仏道の完成であり、人間道の完成)……人間である限り、そうありたいものです。


 以  上 

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(「聖書」の部分のみ友人(
Galilee(ガリレー)さん)からの情報)
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